逃げることは恥じではない!!ParaTが叫ぶ

「脱出の美学」

1994年7月頃執筆

 よく学園ドラマなんかで挫折しかかった人物に「諦めるな!逃げてどうするんだ」と説得するシーンを見かける。確かに諦めるにはチト早いという状況もあるにはあるのだが、ここは一番逃げるが勝ちという場合も結構多いと思うのである。

 私がこよなく愛する「太平洋奇跡の作戦・キスカ」という映画がある。東宝が昭和43年だかに作ったモノクロ作品で、内容はと言うと太平洋戦争中アリューシャン列島のキスカ島にとり残された5千人の海軍守備隊を一気に脱出させて大成功したという実話を元にドラマ化したものなのだ。三船敏郎演ずる水雷戦隊司令官が周囲から臆病者呼ばわりされても猪突猛進せず、じっと1回だけのチャンスを待ってキスカ島に突入しドラスティックに撤退するという《逃げる見本》みたいな映画なのだ。まあ実話とは言ってもあくまで映画なのでいろんなところで脚色がなされてはいる。作品としての評価は別としても、古今東西のいわゆる戦争映画の中では極めて異彩を放っているということだけは間違いない。
 例えばこの作品、れっきとした戦争映画なんだがほとんど人が死なない。せいぜい負傷兵役のウルトラマン俳優黒部進が自殺する位で、これといった戦闘場面もない。無論、男と女の悲しい物語もない(因みに女性は只の1人も出てこない)。まさに知謀と勇気のキャパシティーのみで構成されている類希なる硬派な作品なのである。何よりも人を殺しに行くのではなく救けに行くという設定がうれしいではないか。

 あまり本題とは関係ないが、この「キスカ」と私の出会いをちょっと説明しよう。
 あれは私が小学4年生だったと思う。当時金曜日にやっていたゴールデン洋画劇場で終戦特集として放送されたのを観たのが最初の出会いであった。
 その頃は8月になると決まって終戦特集と銘打って戦争映画をやったり、夏休みスペシャル「ゴジラ対ヘドラ」なんかをやっていたものだった。徹底した戦争プラモ好きで将来は自衛官かどこかの国の傭兵になるに違いないと誰もが信じて疑わなかった少年ParaT君がこの「キスカ」という殺虫スプレーみたいな映画を見逃すはずがなかった。
 クリスチャンで共産主義者のくせに中国大陸で散々暴れまわり、さらにはカンチャーズ島事変勃発の丁本人である元陸軍省役人の父親は「そんなもの見ないで早く寝ろ」と言うのだが勿論聴く耳は持たない。
 扇風機から生暖かい風が吹き付ける部屋でブラウン管を凝視する。円谷英二の卓越した特撮の技。キスカ島西岸の未知の暗礁水域を進む軽巡洋艦阿武隈の艦橋に緊張が走る。手に汗握る瞬間だ。宇宙戦艦ヤマトが魔のサルガッソ空域を進むのよりずっと緊張感があるのである。
 静岡模型共同組合のウォーターラインシリーズで田宮の戦艦大和や空母信濃なんぞの役立たずを作っていた無知な野郎には理解出来ないだろうが、私は軽巡洋艦や駆逐艦などの水雷艦艇ばかり作って喜んでいた変わり者なのであった。小さいくせに魚雷で超ドレッドノート級戦艦でも沈めてしまう舞の海みたいなところが好きなのである。
 何にせよ「キスカ」に出てくるのが全部小型の水雷艦艇というのが超渋い。

 因みに放映直後私の学級ではちょっとしたキスカブームがおきた。翌年、長崎への修学旅行の途中、三角港からフェリーに乗るや否や甲板で「両舷半速面舵」「左舷ヨーソロ」「4時の方向に敵艦」などという末恐ろしい「キスカごっこ」が実践されたほどである。

 さて、10数年が過ぎ大人のParaT氏である。ビデオ屋でアダルト物を借りても怒られない立派な大人に成長している。相変わらず戦争プラモは大好きだが、基本的に戦争反対という主義主張の驚くべき転向も示している。

 初めて入った近所のビデオ屋の邦画コーナーで、あるんだなこれが「キスカ」…。もう涙が出そうになった。ここで桂小金治がいたら「よかったねぇ」と一緒に泣いてくれることであろう。
 我が家で10数年ぶりに観る「キスカ」は全然色褪せていない。決してモノクロ作品だからというくだらないサゲをつけるわけではなく、本当にイキイキとしている。戦争物にはなくてはならない藤田進もいいし、稲葉義男なんぞ「砂の器」や「ザ・ガードマン」のときよりいいんだぞ。アタック25の児玉清も若い技術将校役で出ている。因みに西村晃は性格の悪い参謀役である。

 それにしても最近は戦争映画というのがめっきり減ってしまった。戦争が罪悪なのは百も承知だがエンターティンメントという観点ではこんなに面白いものはない。司令官同士の知謀の駆け引き、ちょっとしたトラブルが招く大きな誤算など非常にドラマチックな世界なのである。偏見かも知れないが東映が二百三高地でさだまさしに《海は死にますか》と唄わせたときからいきなりメロドラマになってしまった。暴論かもしれないが戦争映画に女は不要なのである。唯一必然性があると言えばフランス映画の「ダンケルク」くらいなものであとは要らないのである。
 ヤクザ映画も同様で、単純に義理と人情の男の世界を描いていたからおもしろかったのに、極道の妻とかなんとかで女の視点を加えてしまったからダメになってしまった。はっきり言わせてもらうけどどうして東映ってこんななんでしょうか…。

 戦争映画は戦意高揚や軍国主義につながるから反対だという左巻きの人達は「ひめゆりの塔」みたいな悲惨な作品を奨励なさる。あの作品で可哀相なのは可憐な少女が自決にまで追い込まれる切迫した心理なのであって本当の戦争を意味するものではない。本当に悲惨なのは彼女達が自決した後の糞尿まみれの内蔵や肉片の散乱状況なのである。その中にこそ戦争が持つ残酷さがあるのである。本当の反戦作品とは単に可哀相と思わせることではなくて背筋に鳥肌が立つほどの嫌悪感を植え付けさせるものでなければダメである。

 戦争映画と反戦映画を明確に分類する為にあえて戦争エンターティンメント映画と呼ぶならば日本を代表する作品としてこの「キスカ」を挙げることにしよう。因みに脱出関連の戦争エンターティンメント作品としては前出の「ダンケルク」、バーンスタインのテーマ曲が懐かしいユナイト映画「大脱走」、イギリス軍が脱出出来なくて窮地に立たされる反面教師作品「遠すぎた橋」などがある。

 まあ「キスカ」礼賛はこの位にしておくが、私はこの作品によって勝手に哲学してしまったのである。それは《逃げることの美学》なのであった。

 兎角日本人には猛進型の人間が多い。ダァーっと突っ込んでパッと散る潔さを尊ぶ性癖がある。戦争中なんかこんな人を勇敢な人物だと皆が評していたようであるが、これが日本が敗れた大きな原因だと言う歴史家も多い。戦人訓などと言う多分武士道とやらの曲解からこういう風潮が始まっているのではないかと勝手に考えてしまうのだが、だとしたらそろそろこんなのやめてもいいんじゃないの?物事を進めて行く上で壁にぶつかるのは当たり前のことなんだから、それを撃ち破っても回避しても結果的に前に進むことが出来ればそれで良いのではなかろうか。
 「壁にぶつかったんで引き返してやり直します」ってなことになるとすぐに「こいつは根性が座ってない」と罵る精神注入棒型単純明快馬鹿がいるが、引き返してでも前に進もうとする奴の方が余程根性が座っているということに何故気付かないのだろうか。
 また、この方程式をちょいと組み替えると、物事を進めていく上で何らかの壁にぶつかることは当然あるわけだから、その壁を乗り越えられなかったときの回り道というか逃げ道を初めから考えておけば効率的かつ安全な進路を約束されることに気付く。だが、言葉でそうは言っても実践するのは中々骨が折れるらしく、実際逃げ道を巧みに利用している奴はほとんどいない。
 例えば、いじめられて自殺する子供も、賄賂を貰って捕まった政治家も皆逃げ道を持っていないのではないか?
 よく教育評論家が「子供にも逃げ道は必要です」と言っているがそれは正しい。間違いなく正しいのだ。だが何が逃げ道かを子供に分からせなければ教育評論家とは言えない。

 折角だからいじめの話をするが、大体いじめなんぞに大した理由なんてないのである。
 私が中学1年とき、私が中国人だというあらぬ噂が突然出てきてクラス中から村八分状態になったことがある。恐らく私が海外放送を受信して喜ぶBCLというのにハマっていて北京放送なんかを毎日聴いていたのが発端ではないかと思う。
 因みに種田家は徳川譜代の土居家の分家であり1万石の名家、さらに日本人である。別に中国人でも悪くはないが、現実に私は日本人なんだから正確な区別は必要である。…と言ってやっても仕方ないので、その日のうちに一気に武力行使に突入となる。あらぬ噂を流した丁本人に狙いを絞り、こいつを袋叩きにしてやるという集中戦法。つまり敵の大将を一気に叩いたわけである。これも死地に居て活路を見出だす兵法すなわち逃げ道の構築である。(関ケ原の合戦の際の島津の行動を参考)。要するに武力制圧が目的ではなく不当な外圧から逃れる為の行動だったわけでこれも《脱出》の一例に過ぎない。何か政治家の言い訳みたいだが実際そうなのである。

 たまに馬鹿な政治家が「太平洋戦争は侵略戦争ではなく経済的に日本が追い込まれた結果止むに止まれず始めた戦である」と一見脱出口を求めての必然的な行動であったかのように主張する。もしそれが本当であるならば真珠湾攻撃の時に淵田中佐が進言した第3波攻撃を何故やらなかったか。実行して450万バレルの燃料タンクを叩いておけば即停戦に持ち込めたわけで、日本に有利な形での主張も出来たはずである。実際は全てにおいて中途半端な作戦のオンパレード。無闇に損害を増やしただけで逃げ道もヘチマも考えていない暴挙であった。世界中の軍事アナリストから不思議がられるこの第3波攻撃の黙殺。黙殺した源田実という大馬鹿野郎は戦後参議院議員なんかになっちまってる。日本って国は実におめでたい。

 そんなわけで政治や行政の世界にも《逃げ道》を知らない大人が多い。例えば最近話題の高速増殖炉なんてのは世界中で「危ないし大して儲からないからやーめた」ってことになっているのに日本だけは「やればできる」と強気である。一旦始めてしまうと投げ出すのが嫌いなのである。長良川の河口堰だってそうである。どうひいき目で見ても無用の長物なのに建設省の馬鹿のメンツだけでゴリ押しである。ここで止めてしまうと始めた誰かの責任問題となるのでそれを恐れてのことだろうが、もう少し利口な奴だったら始めからダメだったときの対応策すなわち逃げ道を用意しておくだろう。みんな逃げらんないドロ沼にはまっているだけなのである。

 ここまで書いたんで大抵の皆さんにはご理解頂けたと思うが、私が言っていることはすなわちこれ全てフェールセーフの問題なんだな。
 例えば、中華航空墜落事故で一躍有名になったA−300の自動操縦にしてもパイロットがマニュアル通りの操作をしなかった時の逃げ道が作られていない。
 北朝鮮の問題にしても万一経済封鎖となったら金一族にとっていよいよ逃げ道がなくなる。逃げ道を作る方法として武力行使の危険が一気に増大するだろう。
 このように如何に逃げ道が重要かお分り頂けたと思う。
 ここで私が今日本で最も破滅的だと思っているのが企業の盲目的なリストラブームである。リストラという言葉の意味もろくに理解していない幼稚な経営者が雁首揃えて右へならえでやっている。もうヒステリックに近い。
 まず、社会問題にもなっている管理職の首切である。だめな奴はどんどん首にした方が良いとは思う。だが再就職先の斡旋など余程注意してやらないと社員全員の忠誠度が低下する。場合によっては会社の士気に関わることになり社長の首を絞めることになる。
 新卒者の採用枠の縮小や見送りにしても問題である。就職浪人イコール失業者である。仮にフリーターとなっても殆どの場合大した収入ではないし、納税だって怪しいもんである。失業者が増えれば必然的に不景気状態再突入である。今は円高やバブル後遺症のデフレ状態だが、このままだと景気回復どころか悪性インフレに突入する可能性だって捨てきれない。
 企業の多くはマイナス成長となっているが簡単な話、バブルでメチャクチャな儲けをしていた後だもの、どんな状態だってマイナスにはなるはずだ。今だって決して儲かってないわけではない。要するに便乗リストラなのである。
 今ここで言えるのは、この時節それなりに人材を確保した企業が、長い目で見て結果的に逃げ道を作るということである。つまりは前進出来る切符を手にしたことになるということである。
 10年前のフジテレビの快進撃を見よ。オイルショックで民放各社が新卒採用を見送った時、フジテレビは子会社を窓口として若者を採用していた。結果的に彼等が後に民放のお荷物とまで言われたフジテレビをトップの座にまで引き上げたではないか。これこそまさに逃げ道の勝利である。もっともこの後の黄金時代ボケでまた元の母と子のフジテレビに戻りつつあるのは悲しい蛇足である。

 ともかく逃げることを恐れてはいけない。また「いつでも逃げられるんだ」という安心感をもって前に進むのも一つの手である。
 私の永遠のテーマは《逃げ足の早さ》である。仕事上いろんな人物とチームを組むことがあるが、途中で「駄目だこりゃ」と思うことがしばしばある。私は殆どフリーランスのような位置付けなので失敗は次の仕事へのマイナス要因であり、根本的に失敗が許されないシビアな世界に生きている。
 普通であれば相手の能力やセンスを確認する為に1ケ月以上の《お見合い期間》を設けて組むべき相手かどうかを探るのでプロジェクトがスタートしてからゴタゴタすることはまずない。だが極希にいきなり混成部隊でスタートすることがある。こんな時が非常に危ないのである。
「駄目だこりゃ」ということになるのは大抵40過ぎの団塊の世代とかいう輩が肩書きだけでチームに加わった時である。この手の人物というのは一見物分かりが良さそうに見えるのだが、実際は頭の回転のスピードといい、情報の吸収力といい、咀嚼能力といい全てにおいて偏差値を大きく下回る。センスが少しでも備わっていればまだましだが大抵役に立たない。にも関わらず予算や査定の権限を掌握しているもんだから直属の部下はタダのイエスマンになってしまう。まあこんなのと組んだってまともな仕事はまず出来ないわけで結局ほとんどの場合酒場で愚痴をこぼすことによってそのフラストレーションを発散させることになる。
 自分で言うのも何だが私は相当忍耐強い人間である。なるべく穏便かつ確実に物事を進めようと努力する人間なのである。だがその忍耐もプチッと音をたてて切れる時がある。そんな時私はドラスティックな行動に出る。
 私はズバリ《逃げ出す》のである。勿論ただ逃げるんではなくて、揉め事を起こすなりクーデターを起こすなり様々なトラブルを誘発させてそのプロジェクトを混乱させる。そしてあらかじめ用意した脱出路を悠然と進むのである。しかもトラブルの主因が馬鹿管理職であるように根回しを徹底させ、その上トラブルの引き金を他人に引かせるという非常に高度な謀略を実行する。よって自分は被害者Aを演じて何食わぬ顔で次のプロジェクトに移行するのである。下手をすると信用を失うかもしれない。だがこいつらと組んだって結果的に成功することはありえない。つまらん奴には御奉公しないのが私のポリシーなのである。
 確かにこれは特異な例ではある。だが大なり小なり腐れ縁みたいな付き合い方ってあるでしょ。逃げだした方が後々良かったりする場合の方がむしろ多いと思うのである。

 豊臣秀吉が信長に仕えるまでの経歴を見なさい。劉備玄徳が諸葛亮孔明と三顧の礼で水魚の交わりを結ぶまでの足取りを見なさい。全て《逃げ足の早さ》ではないか。

 終身雇用が崩壊しつつある今、会社への忠誠心も崩壊している。結局は能力中心主義という新しい形の下剋上である。逃げること是としながらも結果的には前に進む《3歩進んで2歩下がる理論》が益々カオス度を高めるこれからの日本ビジネス戦線を乗り切るヒントになると考える。

 仲間が駄目になりそうな時、助けてやるのはいいが道連れになってはいけない。自分も危なくなったとき、そのときはすかさず逃げてしまえ。ひょっとしたらもう一度体勢をたてなおして助け船を出すことが出来るかもしれないから…。実は「キスカ」はこのことを教えているのである。1ぺん観てみなさい。

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