まあいろいろとありますよ。でもこれが本音です。

「差別語についての私見」

1994年9月頃執筆

 こんなことがあった。
 あるラジオ局での出来事…。
 まさに夜のヤング向け生ワイド番組の真っ最中である…。
 繁華街からの生中継レポートが終って、スタジオのパーソナリティがマイクを引き取ったところだ。
『レポーターを街で見掛けたら《声》を掛けてやって下さいね。でも《汲み取り屋さん》じゃないですよ』
 パーソナリティはこう発言した…。《声》と《肥え》を掛けた下らない駄洒落である。
 すると、すぐさま小肥りのアニメおたく系のディレクターが「今の《汲み取り屋》というコメントを取り消すように」というなぶり書きのメモを持って来た。
 まあ確かに放送業務的に言えば職業差別的なあぶない言葉の部類に入るわな。
 でも、この時のディレクターの余りに事務的かつ高圧的な指示にパーソナリティは憤慨しちまって、もうスタジオは超険悪な雰囲気になってしまった。
 結局この後「先程の《汲み取り屋》という発言を取り消します!」と怒りに声が震えながらパーソナリティは訂正コメントを入れてひとまず一件落着となった。

 さて、ここで問題なのは《汲み取り屋》という言葉が差別的な発言か否かということではない。
 《あぶないなあ…》と思ったら、抗議が来る前に謝ってしまおうという《腐れ外道》のような根性のひん曲がった奴が日本のメディア界に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しているという歴然たる事実を私は問題視するのである。

 話は全然変わっちゃうけど…。
 私が白川中学で保健委員長をやってた頃(うわあ恥ずかしい!)学校中に《百姓》という言葉が大流行したことがあった。
 《ダサイ》とか《カッコ悪い》の同義語として『うわ、ぬしゃ百姓んごた(うわ、お前ダサダサ)』という使用法を基本として、この言葉はアッと言う間に普及していったのである。
 さて、この問題をいつもの組合系教員が見逃すわけがなく、職員会議において問題化させると共に、解決の手段として金八先生も真っ青の全校集会てなやつを開くことになった。
 1時間にも及ぶお説教と差別が及ぼす罪悪についての講話が行なわれた後、ステージ上の教員は『もう絶対に百姓などという発言をしないと誓える人は手を挙げなさい』と言って我々に挙手を促した。
 私も単なる脊髄反射的な投げ遣りさで手を挙げた。周囲を見渡すと千人以上の全校生徒が手を挙げているという不気味な絵柄である。
 その時…。
『宮下(仮名)!きみは手を挙げていなかったがどうしてだ』ステージ上の教員が指を差しながら叫んだ。
 全校生徒の目が体育館中央最後列の宮下の姿にグググッと集中していった。
 それにしてもよくまあこの多人数の中から1人だけ手を挙げていなかった奴を見付けるとはこの教員なかなかの視力と感心するが、そういう問題ではない。
『宮下、立て。どうして手を挙げなかったか答えなさい。ん?どうした?手は挙げてなかったけども私の言ったことは理解できたんだろう…ん?そうなんだろう』
 ちなみに宮下は成績優秀、性格は温厚で協調性に富むというまさに非の打ち所の無い優等生である。そんなこともあってこの教員は優しい言葉遣いで宮下を説諭しようとしているのだ。
 宮下はスッと立ち上がった。
『いいえ先生、僕は出来るわけがないと思ったから、あえて手を挙げませんでした!』
 体育館がざわめき出した。
 私の居眠りしていた神経にも最大振幅のバイブレーションが起こり始めた「うわぁすげえ!少年ドラマシリーズみたいじゃん(今時の中高生には理解不能な番組名であろうな…)」
『なにぃ!宮下、理由を言いなさい!どうして出来るわけがないと言うんだ』
 恐らくこれまでの教員生活の中で最も強烈なショックを感じているであろうこの男は声を震わせながらも必死に冷静さを取り戻すために演台の中で拳を固く握り締めていた。
 宮下は堂々と声を張り上げた。
『ここで手を挙げた人の多くは先生が手を挙げろと言ったから挙げただけで、本心から反省しているとは思えないからです。こんな茶番では差別なんか無くならないと思ったから僕はあえて手を挙げませんでした』
 キャッホーこれが中学3年生の発言かよ。凄すぎる!尊敬しちゃうぜ…と今だに思う。
 ちなみにこの後、彼は職員室に呼び出されたのだが、その後どうなったかは知らない。ストレートで熊高に行けたようだから大問題にはならなかったんだと思う。

 本題に戻るが、私はこの時から《差別》というものについて一種のこだわりのようなものを持ち始めたのである。そして今では確固たる信念として私の感情を支配するファクターの1つにまでなっている。
 それは《差別は絶対に必要!そして差別を巧く利用することは素敵だ》と言うものである。
 フフフ、部落解放同盟あたりの人が見たら怒髪天を衝くコメントかもしれんね。
 でも私は、関東地方某県の革新系その手の団体の糾弾会(このネーミングもスゴいものがある)に呼び出されたことがあって、その時も約8時間に渡って叱責や説諭を受け続け、危うく洗脳されかかったけれども、頑固に自らの主張を曲げなかった為、逆に感心されたという強烈な実績があることも一応添えておくね。
 世の中、男と女の別、年令別、能力別、適性差、体力差、体格差、人種、性格、人生経験、性癖、味覚、美学、等々…あらゆる面で差異が認められる。これこそが本来の《差別》というものであり決して罪悪では無い。
 むしろ、差別があるということは我々の個性を際立たせてくれる素敵なものというふうにポジティブに考えるべきである。
 確かに、ある面で皆々様が平等であることが望ましいというのは建て前としては理解出来るけれども、皆が何でも同じというふうにはいかないちゅうことは、生命の根拠であるDNAの組成が如実に物語ってくれている。

 さて、では何がいけないのかと言うとそれは差別を悪しき方法に利用することである。
『あいつは○○○だからシカトしょうぜ』とか言ってネガティブな方向に差別を利用するのが悪しき方法の定番である。こういうのは許してはならない。まあそんなことくらいは単純に理解デキルよね。
 だとすれば今のメディアが抱えている《言葉狩り》という名の自主規制とは何なのだろう。
『あいつは朝鮮人だから…』
 これは感情的なものを除けば単なる民族的な区別を意味している言葉に過ぎない。
 ひょっとしたらこの言葉の意味するものは、葉月里緒菜が恋人役のチョーヨンピル(なんと渋いキャスティングだろう…)のことを友人に語っている時「あの人は朝鮮半島の人だから辛いものはおまかせなのよステキ。」という好意的な意味合いを込めているのだけれど、葉月里緒菜一流の男まさりな言葉遣いで発したセリフなのかもしれない。
 あるいは粗暴な特高警察役の石倉三郎が朝鮮人徴用工役の白竜を連合国側のスパイと疑って不当逮捕する時に発した蔑視系の意味かもしれない。
 しかし最近のメディア(特に電波系)は、例え前者の好意的な意味であろうと何だろうと、なるべくならこういう言葉を避けて通りたいと考えてしまう《無気力な制作者》達に支配されている。
 要するに、触らぬ神に祟り無しという《ことなかれ主義》が自分の出世を確実なものにしてくれると考える官僚的な思想が今のメディアの瞬発力を奪っているのである。

『バカチョン』という言葉がある。一昔前までは全自動お子様カメラのことをバカチョンカメラと言ったりもした。
 ちなみにこの言葉は放送上最重要注意用語の一つであって、生放送なんかで神経を使う言葉の一つである。
 確かに、朝鮮人蔑視の《チョン》という言葉と《馬鹿》を合わせた用語として知られ、朝鮮人侮蔑用語の最右翼としての歴史を持っているのは事実ではあるが、一方、江戸時代のとある文献に「馬鹿チョン」という言葉が既に登場しているぞと反撃すれば、このことについてはどう説明してくれるのだろうか?
 ちなみにこちらの「チョン」は独身男を意味する「チョンガー」が語源で、特に誰かを侮蔑する意味合いの言葉ではなく、しかも朝鮮民族とは全く無関係な言葉なのである。
 私はプロのカメラマンでもあるんで、やれ一眼レフだのリンホフテヒニカだのと持ち歩くけれども、やっぱり軽くて便利なのはバカチョンカメラである。
 私は小学生の頃からバカチョンカメラを使い続けてきているので、今だにバカチョンカメラという言葉に愛着があり、今さら全自動小型カメラなんていうテレショップみたいな呼び名が使えるもんかいという意地がある。
 子供の頃、私はバカチョンという言葉の響きは「馬鹿」や「アホ」よりも1ランク優しい言葉のように感じていた…。ところが後にこれが朝鮮人蔑視の言葉だと知った時は正直言って意外だった。
 でも私にとってバカチョンは朝鮮人蔑視などではなく江戸時代から流行していた「不精な独身男でも朝飯前にやっつけられるほど簡単」という意味なのであり、私がバカチョンカメラと発言したとしても言葉の訂正は絶対に許さないぞ!と宣言できるものなのである。
 それにしても、アナウンサーなんかが真顔で『先程のバカチョンという言葉をお詫びして訂正します』と言った後に「これにはこういう意味と歴史があり、こういう全く別の意味合いもあるにはある」くらいの説明ができないのは無気力・無関心・不勉強の証しなのであろうな。

 数ヵ月前、福岡の某テレビ番組でプロデューサーという実に不本意な仕事をやってた時に、局側のプロデューサーから「この台本の中の鳶職(とびしょく)という表現は差別的だから変えるように…」と言われたことがある。
 私は鳶職のどこが差別的なのか全く理解できなかった。そんじゃ鳶職の人を《高所作業専任建築作業員》などと表現すんのかよ。こっちの方がよっぽど鳶口でブン殴られるぞい!と思うのだが…。
 彼等、一見先進的な言論人を装うマスコミ人達は、実は無意識の内に、差別的或いはクレームが来そうな発言に対しての間口を自ら狭くした上で、消極的な占守防衛に撤する無気力な風潮を作り出してしまった。
 テレビ番組でいちいちピーという耳障りな1KC信号を入れて発言を隠してしまうという流行も実に腹立たしく且つ悲しいものだと思う。
 ともかく、言った後にクレームが来れば堂々と受けて立てば良いのである。言う前から敗けてしまうのでは議論にも喧嘩にもならず、決して前進することもあるまい。

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