突然ParaTは旅に出かける

「栃木に行ったときの話」

1994年5月頃執筆

 新緑の季節、3月末日。その日こそ「取材をせねば!」と意気込んでいた日だったである。
 意気込んだとは言うものの、こんな日はこれまでに何回もあって、結局「まっいいか」てな具合で諦めてしまい、この日も何かしら理由をつけて先延べしてしまうのではないかという危惧が実は心の奥で渦巻いていたのであった。
 ところがである。この日は少々事情が違うことになった。というのは、何気なく開いた朝刊の航空券予約状況欄に目が止まってしまったのだ。
「へぇ、空席だらけだねぇ…」
 大した事ではないが、何か行動のきっかけとなるのはこんな些細な出来事ではないだろうか。
 ふと時計を見ると時刻は午前11時ちょい過ぎであった。
「今からなら昼2時の羽田行きにバッチリ間に合うなあ」
 ちょっとした葛藤があって…。
「行くか!」
 これがTVドラマだったら、ここでタイトルバックとオープニングのカットインってな感じである。
 そして、話はまるでドラマのカット割りのように急激に飛んでしまうけれども、気が付けば私は全日空スーパージャンボ機の人となっていたのである。
 ちなみに今回の取材旅行は、自称構想10年という歴史ノンフィクション小説の素材集めというのが目的である。
 いつもの「東京で大酒飲んで、パアッと騒いで、部下をからかっちゃおうツアー」という気楽なものではなく、ひたすら真面目な仕事なのである。
 スーパージャンボの機内である。私は右手窓際3人掛座席の真ん中に座って、備え付けの雑誌のスカイショッピングなどを読んでいた。

 窓側の席には、時節柄初めての赴任地へと向かうフレッシュマンの緊張したような姿。何やら鞄から一目見て恋人からのものと分かる手紙を取り出して、物憂げな表情でそれを凝視している。結構、絵になっている。
「むふふ、まあ頑張んな…」心の中で呟く大人の私であった。
 ところで、唐突な主張をさせてもらうけれど、飛行機に付いているイヤホンの音質はどうにかならないだろうか。ステレオと言ったところでどっちがLでどっちがRか判別不能だし、なにより伝声管方式という昔の軍艦みたいなやり方が不思議だ。もっともイヤホンのリサイクルコストのことを考えれば現行のやり方が適切なのかもしれない。でもハイテクのさらにまたハイテクを行く航空産業のこと、もっと進んだ方式を考えることは十分可能であると思うのだが。
 それとビデオプロジェクターでやってるゴルフ番組は勘弁して欲しい。どうせやるなら航空産業の歩みとかライト兄弟物語とか自分とこの業種に関係のあるテーマを分かりやすく面白く作った奴なんかをやれば良いのにと思う。航空産業が低迷している今だからこそ折角の顧客の意識を高めるべきだろうと思うのだが…。

 新しくなった羽田空港に初めて降り立った。噂どおりにビッグである。出来て間もないだけあってさすがに綺麗である。だが、新しくなればなったで古いものへの郷愁はつのるものだ。
 かつての空港ビルディングの屋上は、私の格好の時間潰しの場所であった。場末のデパートの屋上のような雰囲気。大して旨くもないラーメン。カレーに焼売が付いただけで特製カレーに変身する強引さ…そんな大衆的なカフェテリアであった。しかもあまり知られていない為かお客も少なく、離発着する飛行機を眺めながらのんびりとすることが出来たものだ。
 新しいビルの屋上にはそんな空間が果たしてあるのだろうか。残念ながら今回は探険する時間が無かった分からないが、多分全く違うものになっちまってるんだろうなあ…。

 話はまた極端に飛ぶが渋谷である。しかもモヤイ像の前である。ロック風の馬鹿とかコギャル風の馬鹿とか外人の馬鹿とかで一杯である。そんな馬鹿と一緒にされたくないのでさり気なくバス停でバスを待つふりなどして時折意味もなく携帯電話で天気予報を聞いたりしている。こういう無意味な動作も、よく考えればやっぱり馬鹿の一種であることは一応自覚している。
 しばらくして、今年で33歳というのに今だに地に足がついてない悪名高いNHKディレクター葛西弘道がふらあっと現れた。
「ああ種ちゃん久しぶり」
「カサ坊もおかわりなく」
 二人とも30代の男にして種ちゃんにカサ坊である。自己嫌悪に陥るくらい馬鹿である。
 この後、弟子の江森と合流する予定なのだが、それまでしばらく時間があったのでNHK放送センター13階の食堂で暇を潰すことにした。
 生ビールにイカゲソの唐揚げ、タコ焼きなどほとんど居酒屋状態の社員食堂にはあちこちでメーターの上がった(古い表現だ)オヤジが騒いでいる。皆様からの受信料はこういうところにも役立っているのです。
 その後、NHK関連会社のエグゼクティブプロデューサーに出世した宮糸氏(通称宮チャン)と江森が加わりNHK御用達というスナックに行った。
 何と、お客全員NHK関係という恐るべきスナックである。うかつに「こないだのNスペはヤラセくさい」とか「Yアナの退社は部内の派閥争いが原因らしい」とか言えない店である。
 カウンターのところでは子供向けニュースをやってる某アナウンサーがB'zやWANDSを歌い、朝のニュースに出ている青山某なる女性もお手拍子宜しく盛り上がっている。実に珍妙な店だった。
 すでに夜中の1時過ぎ…。スナックを出て近くの中華屋に入ったのだが、ここで葛西とちょっとした口論になる。
 大した話ではないのだが、群馬県高天ケ原の尾根(御巣鷹山というのは本当は間違いだそうである)に墜落した日航機123便の自衛隊無作為撃墜説を取る不肖わたくしと、航空自衛隊幹部のご子息である葛西氏との根本的なスタンスの違いと大酒のせいによる下らない堂々巡りの口論であった。
 それにしても私が怒って店を飛び出したお陰で、一円も金を払わずに済んだのは、またしても種田の見事な計略であったと後々うたわれているようである。

 杉並区の自宅に帰る江森とタクシーに乗る。私は今夜の宿がある新宿駅の近くで途中下車することにした。
 2丁目を過ぎたあたりののホテル街を一人トボトボと歩く。わざわざこんなところを歩かなくても良いのだが、デンジャラスなところが大好きな水戸黄門のような性格がそうさせるのである。
 歩きながら携帯電話で自宅の留守電をモニターすると田原真希から労いのメッセージが入っていた。私がプロデューサー兼コメンテーターということで出ていた福岡のローカル番組「世界初!公開企画会議番組」の彼女は出演者の一人で花の女子大生である。
 そう言えば今夜の放送が最終回なのであった。まあ嫌々やってた番組だし、スタッフのチームワークも最低だったので最終回と言っても心に響くものは何も無かった。だが彼女にとっては初めてのレギュラー番組のラストである。何かしら想いがあったのかもしれぬ…それにしても挨拶を忘れないなかなか感心な奴…などと思っていると暗がりでもそれと分かるオカマの立ちんぼなどから声をかけられ結構不気味なムードで新宿厚生年金会館裏のリステル新宿に帰り着いた。

 翌日、結局寝過ごしてしまい、起きたのは正午であった。
 あわててホテルを飛び出し新宿駅へ向かう。昨夜水割りを飲みすぎて水分過多になっているのと都会独特のムワっとした暑さで汗が一気に吹き出してしまった。
 途中、西日本銀行の新宿支店で軍資金をおろす。地方の銀行の東京支店なんてのはどんな奴が利用しているのか興味があったが、結構普通っぽいお客が多いようだ。調理師風の白衣男とか、近所の店主とかまあ当たり前なお客ばかりであった。
 銀行を後にし、ブラブラ歩いて新宿駅に着いた。
「さて、どうやって栃木まで行こうか…」
 分厚い時刻表をめくりながら5分ほど考え、結局、新宿から中央線で一旦東京駅に出て東北新幹線に乗り宇都宮の一つ手前の小山駅まで行くことにした。
 上野から乗っても良いのだが、東京駅から東北新幹線に乗ったことが無かったのであえて東京なのである。

「あおば」の指定席に乗る。大宮の次の小山駅で下車し、水戸線に乗り換えである。
 やったあ!水戸線ホームで立ち喰いソバ屋を発見したぞ。思えば今日は起きてから何にも食べていなかったので全身皆これ食欲状態なのである。その上、立ち喰いソバ屋を見付けると如何なる状況においても何故か食欲が刺激されてしまう習性を持つ私は、鬼太郎の霊界アンテナのように階下の汁の匂いに敏感に反応していたのであった。
 階段を一気に駆け下る。まるで砂漠で遭難した探検家がオアシスを発見した心境のようである。ただ砂漠のそれと一つ違うのは、映画にありがちな蜃気楼というドンデン返しではなく現実にソバ屋があることを確信させる嗅覚の刺激であった。
 気が付けばしたり顔でソバを胃袋に流し込んでいる私である。因みに「天ぷらソバ」である。それほど個性的な代物では無かったが、この空腹を癒すだけのパワーを備えた逸品ではあった。ただ、店のおばちゃんが使用後の丼やコップを洗剤も使わず水道水でサラッとゆすぐだけであったのはやっぱり見なけりゃよかった。
 因みに、不祥私は全国の駅の立ち喰いソバを制覇してみたいという野望を常々考えている。こんな企画をやってくれる出版社や放送局があったらぜひ御一報願いたい。
 アツアツのソバを約1分45秒ほどで食し、ホームに停車中の415系1500番代の水戸線普通電車に乗り換える。415系は私が住む九州の鹿児島本線でも走っている奴だが車輛の青色の帯がJR九州のそれより幾分濃い。(ちょっと種村直樹してみた)
 10分ほどして動きだした電車は、のどかな田園地帯を滑るように走っていく。
 下館というところで下車。そこから真岡鉄道という第3セクターのレールバスに乗るつもりだったのだが、時間が合わなかったのでタクシーで目的地の真岡市教育委員会へ急ぐことにした。
 因みに真岡と書いて「もおか」と読む。古くから木綿の産地として知られた小さな街である。この街こそ私がここ数年来研究している希代の名代官・竹垣直温(たけがきなおひろ)の陣家があった街なのである。

 下館駅前で黒塗のタクシーに乗る。何となく怒っているような顔の運転手である。
「真岡の市役所まで」と告げると、無言でギヤを入れ走りだした。
 下館市内を抜け、しばらくすると農村地帯に入ってきた。何となく海援隊の「おもえば遠くへ来たもんだ」というフレーズが出てきそうな感じである。
 なんだか渋滞のようである。よく見ると我々の数台前を走る軽トラが大トロで超スローで走っておられるのが原因である。
 まあ「のどかで良いではないか」と言いたいところだが、帰りの事を考えるとそんなに時間があるわけではない。さすがに私もイライラし始めるわけだが、運転手のオヤジはもっとイライラしている御様子で、追い越すきっかけを模索しているようである。
 ふと対向車が全くいない直線道路に入った途端、このオヤジはこめかみに青筋を浮かべるや否やアクセルをバシッと踏み込み、なんとまあ5台ばかり一気に追い抜いたもんだからビックリよ。
 そしたら、余りに上手く抜けたんで気を良くしたのか突然オヤジが話し掛けてきたもんだからこっちの調子は大狂いである。
「お〜客さん、どこからきたのぉ〜?」
 茨城弁だか栃木弁だかわからないが、ともかくそこらへんの訛りである。さっきまで恐そうなオヤジだと思っていたが、この訛りだど全然恐そうには感じないねえ。要するにトゲが無いんだねえ。この訛りを聞くと何だかみんな善良な田舎の人に見えてしまうから不思議だわ。
「九州の熊本から来たんですよ」
「ありゃあ、そうりゃまたぁ遠〜いところから来たんだねぇ〜大変だったねぇ」
「そうですねえ、距離は結構ありますねぇ」
「九州っつ言えば、雲仙…ありゃぁ大変だぁねぇ、おぉたくさん大丈夫ぅ?」
 などどいう会話を交わしながら黒塗のタクシーは真岡市内に入っていく。「こぉこぉがぁ市役所だぁから、んじゃこれから先ぃ、気をつけてぇ」ってな具合で市役所に着いた。まあ何にせよ結果的には良いタクシー運転手であった。

 市役所に入るとすぐに受付案内のカウンターがあって若い女性が独りで手持ち無沙汰な感じで座っていた。
「すいません。教育委員会はどちらでしょう」と尋ねると本館正面の道路を挟んだ反対側の別館だと言うのでそっちに向かう。
 ドアを開け中に入る。残念ながらここには受付が無く、いきなりのオフィス状態である。こんな時に困るのが誰に用件を告げて良いか戸惑うことだ。今回はアポイントも事前連絡も何も無しでやって来たので益々ややこしくなりそうな不安がある。しかし、何も言わずに立っているのも異常であるので取りあえず部屋の空気に向かって用件を告げた。「すいません、竹垣代官の件でお話を伺いたいんですが…」
 部屋に居る人物の凝視、理解不能、誰だお前ってな空気となってしまった。イカン!これはまずい。何の為栃木までやってきたのか分からなくなってしまう。危機だ…と思ったら。
「ああ、はあ、はあ、竹垣代官ですか。そうですか、まあこちらへどうぞ…」出た!救いの神。まさに蜘蛛の糸を垂らすお釈迦さまである。幸いにして郷土の歴史の専門家が居られたのである。天は我を見離さなかった。
「実は前々から竹垣代官の徳政について興味を持っておりまして、今度小説にしてみたいと思ったものですから取材に参りました次第です」
 真意を伝えると、親切にも資料の山をコピーして持ってきてくれた。思った以上の大収穫であった。資料にない様々なエピソードや史跡の場所などについても丁寧に説明して頂き大変助かった。

 さて、予想以上の充実した取材を終えて帰路につく。今度は真岡鉄道のレールバスに乗って下館に出る。腕を骨折してギプスをはめている中学生とか穏やかな表情をした老人、それにヤンキーっぽいけどなかなかの美人だとかの15人ばかりの乗客であった。
 下館に着く頃は夕方5時を回っていた。後は来た順を逆にたどって熊本に帰るだけである。ところがである。実は出発が遅かったのが影響して、どう急いでも熊本への最終便に間に合わない状況なのである。しかも翌日はエフエム佐賀の生番組が控えている。時間的に見て翌日の朝一番で帰らないと少々マズイことになりそうな感じである。
 結局、羽田空港目の前の東急ホテルに一泊して朝一便で帰ることに変更し、電話で予約を入れる。少々痛い出費であるがまあ仕方ない。
 今回突然の取材旅行は、前哨戦としてはまずまずであったなどど勝手に回顧しながら下館駅のホームに立つ。
 九州在住の人間が何でまた栃木・茨城のお代官様に興味を持ったかはいずれ機会があれば書いてみることにして、今夜はゆっくり眠るとしよう。

 下館から小山行の普通電車に乗る。ラッシュ時だけあって結構混雑している。睡眠不足も手伝って不覚にも居眠りしてしまった。目が覚めたのは終点の小山駅の手前。辺りはもうすっかり夕暮である。ふと気がつくと車内はお国訛りの活気に溢れていた。

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