先月号のリアクションのリアクションです

96年5月号「天才女子高生現る」

 先月号のこのコーナーで「喧嘩売って来い!!」と書いたら、1人だけ売ってきたぞ。しかも売って来たのが女子高生ときたもんだ。男は一体何やっとるんだ情けない。もっとも熊本の若い奴にろくな奴はいないので、リアクションなんか全然期待していなかったのだけど、中にはいるんだなぁ頭のいい奴が。

 ことの経緯をかいつまんで説明すると、先月号で「フライヤーや貼り紙の状況から見た熊本と福岡の文化的レベルの一考察」てな感じで書きなぐってみた上で、この眠たい町をなんとかしようと思う頭のいい奴がいたら俺に喧嘩売って来いと宣言したわけなんだ。そして現れたのが1人のテクノ大好き女子高生(タワーレコードなんかに置いてあるテクコミというフリーペーパーを作っているそうな)というわけなのである。彼女が送って来た2枚の便箋の感情のおもむくまま走り書きした文章からはT熊本人は駄目すぎるUという怒りなのか空しさなのかがストレートに伝わってきて「おいおい熊本の女子高生も捨てたもんじゃねぇなぁ」と私の頑固な脳細胞に微妙な変化を及ぼしたという実に見事な喧嘩の売り方であったのだ。

 ところで今、熊本は確実に死につつある。恐らく何ら独自性も打ち出せず、多くの地方都市と同じように近隣の大都市の小判鮫として細々と生き存える道を辿ることだろう。それは何故か?「不勉強でセンスもなければカリスマ性もないオヤジ連中が権威主義という愚かな嗜好のみで都市の構築を怠惰に進めていること」が主因である。しかしもっと問題なのは、無気力・無関心という生きてる価値を自ら放棄したバカ若者が街をサバ目で濶歩(かっぽ)していることである。模倣することだけに熱中し、自ら何かを創り出すことを知らない見ていてクソむかつく奴がやたらと多いという二重の悪循環が熊本をどんどん駄目な方向に引っぱっているのである。確かに何かクリエイティブなことをやろうとしても熊本にはその受け皿が全然整っていないし、いっそのこと東京や福岡に出ていく方がてっとり早いってのも事実である。でもね、その逆境の中から隙間を見つけて新たなムーブメントを起こすのもクリエイティブなことじゃないのかな。最近気付いたんだが、熊本に住んでいるクリエイティブ指向を装う最先端もどきの連中の多くは、内心で熊本人や熊本の都市構造を否定しつつ、それでいて自ら行動を起こすことをためらう消極的なタイプが実に多い。断言しよう!!そんな奴は東京に出ても福岡に行っても、結局ただの傍観者にしかなれないぞ。自ら発言してチャレンジしていく意気込みのない奴に大都会というT先端文化のるつぼUにおける熾烈な生存競争に勝てる可能性は皆無だ。

 ちなみに俺は熊本に住んではいるけど熊本のためにとか熊本を変えようなんてことは全然考えていない。それに山梨生れだし親類縁者は1人もいないから大して熊本に義理も感じない。しかし、さっき書いた熊本という逆境の隙間から何かを発見することは、これから地方がどうやって生き延びて行けるかという商業ベースとして見事に使える抜群のコンセプトを内包していると思うんだ。だから俺は熊本という見事な素材にこだわっているのである。音楽でも美術でも写真でも何でもおよそパフォーマンスとしてカテゴライズされるものを目指しているお前ら!!東京にも福岡にもどこにもないお前らのオリジナルを1度でいいから創ってみろ!!そしてそのパフォーマンスを遠巻きにして見て見ぬふりをする愚かな熊本県民を大声で罵詈雑言の限りをつくして罵倒し、後ろ足で砂をぶっかけてから熊本を捨てればいいではないか。

 数日後、手紙をくれた女子高生がfmcスタジオを訪ねて来た。どんなゴツイ奴が来るだろうかと思ったら、現れたのは華奢な感じの普通の女の子であった。しかし他と明らかに違うのは、高いIQ(高い精神年齢とも言える)による洞察力の深さとボキャブラリーの豊富さであった。まだ若干荒削りなところもあるがリーダー性は十分にある。近々fmcの番組にも登場すると思うけどこれはちょっと面白いことになりそうだ。こういう人物が現れるようならもう少し熊本を直視できるような気もするな。

ParaTエッセイ・トップページに戻る

all right reserved"fm-monday club"kumamoto.japan.1999-2001