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●1976年4月7日…
熊本市大江3丁目(現在地の隣家)に日本初の常設マイクロラジオ「BSS白川放送」開局。白川中学校放送局在籍の1年生らを中心に組織された。当初の機材はミキシング機能付ラジカセ2台とマイク1本。尚、この頃は中波によるAM放送であった。

●1977年頃…
中継局を増設し(音質無視)中学校区全域をサービスエリアに。「夜の校内放送」という位置付けで注目されはじめる。

●1979年…
スタッフが揃って高校入学。中継局を廃止し、FM放送に移行。

●1981年…
5周年記念で24時間の特別放送を実施。その中で制作されたラジオドラマ「未来への航路」が全国放送コンクール(学校放送だけでなくミニFMなどの自主活動も対象とされた大会。3回で終了した)のラジオドラマ部門で優勝。

●1982年…
この頃から全国的にミニFMがブーム化していく。

●1983年…
東京青山「KIDS」がマスコミでブレイク。その影響をまともに受けて「白川放送」から「join」に名称変更する。

●1984年頃…
「東のKIDS、西のjoin」としてマスコミにやたらと登場。11月にはミニFM史上初の本格的専用スタジオを建設。

●1985年…
地元紙(熊本日日新聞)ヤング欄のプロモーションビデオならびにイベント制作をきっかけに、秋に開局したエフエム中九州で1時間番組「WA!アメーバだ」を制作開始。(一時的にミニFMは中断)

●1986年…
インディーズファッションの草分け「SMPTE」を全国展開。この頃から不定期放送となる。

●1987年…
組織を株式会社化し「join」から「株式会社BSP」に変更。所属バンドのライブ等をプロデュース開始。また、この年の冬、NHK熊本局制作によるTV特番「ヤングスペシャルIKINARI-DAGO」に企画参加。(ちなみにMCはParaTと高見恭子)しかし、混成部隊による弊害がもろに出て番組自体は大失敗作となった。

●1988年…
定期放送にもどる。

●1989年…
元のボランティア組織に戻すために「株式会社BSP」を解散。ステーションネームを持たないフレキシブルなスタイルでの不定期放送に突入。

●1990〜92年…
不定期放送。

●1992年…
福岡市に事務所を設置。

●1993年…
東京都港区三田に姉妹局「FM-CARROT」を開局。

●1994年…
これまで決まっていなかったステーションネームを「FM-Monday Club」に定め、7月4日午後10時より週1日の定期放送開始。ちなみにMonday Clubという名称は毎週月曜日のオンエアに由来する。放送開始直後からリスナー急増。11月にはテープ版の番組集「構造不況と表現の自由」を発表。インディーズ界の隠れたヒットとなり全国で海賊版が多数出回る。

●1995年…
内輪で配布していたフリーペーパーを外部配布に切り替えるプロジェクトがスタート。文科系パソコン通信「MCM」を開局。わずか2カ月で会員数300名に迫る大ヒットとなったが、機材のトラブルであえなく中止。しかしこれが本ホームページ制作のきっかけとなっている。また、熊本市にコミュニティ局を作る市民運動組織からの要請でプロデュースを引き受けるが、他社を牽制するための実体の無い組織であったことが後から判明し直ちに離脱。だが、この時に作られた「ParaTレポート」は低迷するコミュニティ放送を再生させる決定打として全国各局から注目されている。

●1996年…
表記を「fm-monday club」に変更。フリーペーパー「corroboration」配布開始。熊本のカウントカルチャー推進をメインコンセプトとしている。また毎週金曜夜に再放送を開始。8月中は土曜深夜にスペシャル番組「QSN」をオンエア。多角的な展開で熊本をじわじわかき回しつつある。


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all right reserved"fm-monday club"kumamoto.japan.1996